古銭買い取り業者徹底比較!

【寛永通宝】いくらで売れる?種類別の買取相場や価値、歴史を解説

寛永通宝買取におけるおすすめの買取業者を紹介します。
寛永通宝買取におけるおすすめの買取業者を紹介します。

寛永通宝について買取相場など解説します

このページでは次のような流れで寛永通宝について紹介します。

  • 寛永通宝の種類と買取相場
  • 寛永通宝の買取相場を正確に調べる方法
  • 寛永通宝の歴史

当サイトでは寛永通宝以外の穴銭についても買取相場などを解説していて、次のページで一覧で紹介しています。

動画にまとめていただきました!

寛永通宝の買取相場や歴史について当サイトも参考にした動画を作成いただきましたので紹介させていただきます。

寛永通宝の種類と買取相場

寛永通宝の種類と買取相場

まず、基本的な寛永通宝の情報をみていきましょう

寛永通宝の価値と買取価格

寛永通宝
鋳造~通用期間:1636年~1866年(寛永13年~慶応2年の約230年)
古銭としての買取価値:安い~非常に高い
素材:銅/鉄/真鍮(時代によって異なる)
寛永通宝の大きさはおおよそ24~25㎜、重さは3.5gほどですが発行年代によって大きさは若干異なります。円形で中央に正方形の穴がうたれ、表面には上下右左の順に「寛永通寶」と刻印されています。裏面に「文・元・足」などといった文字(概ね1文字)や波型が表記されている事があり、材質は銅・鉄・真鍮のものがあります。
寛永通宝は最もメジャーな穴銭の一つで文字の形状等から100種類以上もの種類に細分化されています。

寛永通宝の種類について

では、寛永通宝の詳しい買取相場を解説していきますが、まず重要な点として同じ寛永通宝でも書体などの違いによって、価値や買取相場が変わるという点と、歴史の長さから種類が100種類以上にも及ぶという点、更に子銭と母銭も別で考えると300種類以上に分類できるでしょう。

日本国内で流通していた穴銭の中でも寛永通宝は膨大な数の種類が存在し、寛永通宝のみを解説する専門書が存在するくらいです。

このように、寛永通宝は膨大な種類が存在するのですが、流通量が多かったことからほとんどの種類の子銭(通用銭)は買取が断られるか数十円程度の買取価格しかつきません。

なので、このサイトでは子銭(通用銭)で買取価格が期待できる種類に絞って買取相場をまとめて紹介します

ただし、種類が膨大かつ複雑なので、ここで紹介している高額な寛永通宝も一つの目安だと思っていただければと思います。それほど寛永通宝の買取相場を紹介することは難しいのです。

ちなみに、寛永通宝には鋳造時期により古寛永と新寛永という種類に分けられますが、買取価格の高さとは特に関係ありません。

寛永通宝の種類や買取相場を見抜くことは素人ではまず不可能ですが、種類によって高い買取相場が期待できるので、価値の高い寛永通宝の買取相場を一覧で紹介した後に素人でも可能な正確に買取価格を調べる方法も紹介します。

寛永通宝の買取相場リスト

  • 銭文の種類
    買取価格
  • 寛永通宝「二水永」
    買取価格
    3000円~14000円
  • 寛永通宝「島屋文」
    買取価格
    20000円~50000円
  • 寛永通宝「島屋文無背」
    買取価格
    1000円~5000円
  • 寛永通宝「折二様」
    買取価格
    5000円~15000円
  • 寛永通宝「蛇ノ目」
    買取価格
    1000円~5000円
  • 寛永通宝「重揮通背仙(石ノ巻)」
    買取価格
    500円~1500円
  • 寛永通宝「大阪難波銭」
    買取価格
    200円~1000円
  • 寛永通宝「白目中字」
    買取価格
    400円~1000円
  • 寛永通宝「白目小字」
    買取価格
    500円~1500円
  • 寛永通宝「押上大字」
    買取価格
    200円~800円
  • 寛永通宝「押上小字」
    買取価格
    1000円~2000円
  • 寛永通宝「低寛背一」
    買取価格
    1000円~2000円
  • 寛永通宝「低寛無背」
    買取価格
    300円~1000円
  • 寛永通宝「輪並川」
    買取価格
    300円~800円
  • 寛永通宝「亀戸大様」
    買取価格
    200円~600円
  • 寛永通宝「亀戸大様降通」
    買取価格
    200円~600円
  • 寛永通宝「大字玉点宝」
    買取価格
    400円~1000円
  • 寛永通宝「長尾寛」
    買取価格
    2500円~4500円
  • 寛永通宝「太ノ」
    買取価格
    300円~800円
  • 寛永通宝「秋田踏潰濶永」
    買取価格
    400円~1500円

寛永通宝の買取価格を簡単かつ正確に知る方法

メール査定がおすすめ

上記の寛永通宝の買取相場リストはあくまでも目安ですので、正確な買取価格を調べる方法もご紹介します。

それは、古銭買取業者にメール査定を依頼する事です。

寛永通宝は写真があればかなり正確な査定が可能ですので、古銭買取業者の問い合わせフォームから写真を添付して送ることで、簡単に買取価値が明らかになります。

実物を見てもらえるメール査定は状態も考慮した古銭の正確な価値を知る為の最善の方法です!

特に、寛永通宝は種類と状態の判断も難しいのでメール査定にて正確な査定をしてもらう事をおすすめします。

そして、メール査定であれば買取は簡単に断れますのでご安心ください。

古銭をメール査定してもらう方法やおすすめの古銭買取業者は次も参考にしてください

寛永通宝買取におけるおすすめ買取業者を紹介

優秀な古銭買取業者に依頼をするだけで、特に手間をかけずにお手軽かつ安心に寛永通宝の高価買取が実現可能です。メール査定にも対応している古銭買取業者なので、穴銭の買取相場を知りたい際にもおすすめな古銭買取業者です!

  • 古銭買取福ちゃん

    福ちゃんの古銭買取データ早見表
    買取価格(古銭) 8.0 ポイント8
    買取価格(記念硬貨) 7.5 ポイント7_5
    顧客対応(サービス) 8.0 ポイント8
    対応のスピード 7.0 ポイント7
  • バイセル(旧スピード買取.JP)

    バイセルの古銭買取データ早見表
    買取価格(古銭) 7.0 ポイント7
    買取価格(記念硬貨) 7.0 ポイント7
    顧客対応(サービス) 6.0 ポイント6
    対応のスピード 8.0 ポイント8

寛永通宝の歴史や特徴

寛永通宝の歴史

「寛永通宝」とは、寛永13年(1636年)に創鋳され、江戸時代が終わり明治時代に突入してもしばらく鋳造され続けた古銭です。

江戸時代には地方銭含めて多くの古銭類が作られそして姿を消していきましたが、寛永通宝は江戸幕府が倒されても長きに渡って使われ続け、明治30年頃まで、期間にすると約260年(事実上は300年以上)も通用していました。

その歴史の長さから寛永通宝のみを紹介する専門書も存在するほどで、江戸時代を代表する貨幣といっても過言ではありません。

さて、江戸時代を代表する貨幣とはいいましたが、寛永通宝は江戸時代に入ってすぐに誕生した貨幣というわけではありません。

その辺も含めて、寛永通宝の歴史を見ていきましょう。

寛永通宝ってどんなお金?

寛永通宝の種類について

歴史の長い寛永通宝ですが、すべてが「額面が1文の銅銭」といったわけでなく、同じ寛永通宝でも素材や異なる貨幣価値の種類が存在します。

なので、まずは最初に寛永通宝が貨幣としてどういったお金だったのか紹介します。

まず基本的には「銅」を素材とした寛永通宝が主流ですが、銅素材の不足により「鉄」「精鉄」「真鍮」を素材とした寛永通宝が鋳造されています。

そして、寛永通宝の貨幣価値ですが、銅銭は全て「1文」、裏面に模様がない鉄銭も「1文」、裏面に波形が刻まれている「真鍮銭」と「製鉄銭」が「4文」として流通しました。

寛永通宝が日本統一貨幣になるまで

江戸幕府が成立した頃、日本で流通していた銅銭は主に「永楽通宝」が使われていました。

室町時代から200年余りの長きに渡って使われ続けてきた永楽通宝ですが、実は関東近辺でしか使われていませんでした。関西方面では「京銭」と呼ばれる、出来の悪い銅銭が使われていたように、実は当時の日本では貨幣が統一されていなかったのです。

そのため、1603年から始まった江戸幕府は「日本国内の銅銭を統一すること」を考え、1606年に鋳造されたのが寛永通宝・・・ではなく「慶長通宝」でした。

しかし、江戸幕府が始まって間もなかった事から、全国の経済状況や経済の中心地でもあった元豊臣家のお膝元でもあった大阪から快く思われなかった、全国で安定して通用させれるほどの鋳造ができなかったことなどの理由から、この時は銅銭の統一は失敗に終わりました。

それから約30年後の1636年に再び銅銭の鋳造を開始しますが、この時に鋳造されたのが寛永通宝でした。

鋳造当初こそ生産数が足りず既に流通していた古銭の流通は止まりませんでしたが、全国的に銀座幕府が許可した銭座を構え、生産体制を整えること次第に寛永通宝は全国で普及することとなります。

しかし、全国で普及していくのはいいのですが、「全国で統一された銅銭の鋳造」は初めての事なので手探りでの運用でした。

その結果、「寛永の大飢饉」といった自然災害の影響もありますが、寛永通宝の過剰生産による貨幣価値の下落や原料不足といった自体もあり、生産の停止や再開など紆余曲折を経る事となります。

ですが、寛永通宝が鋳造されてから約30年が経過したころには生産・流通体制も整い、以前から流通していた永楽通宝といった「明銭・宋銭」などの渡来銭の流通もなくなり、日本における銅銭の統一が果たされることとなります。

鋳造時期で3種類に分けられる寛永通宝

3種類に分けられる寛永通宝

寛永通宝は260年以上もの長い歴史をもつ貨幣ですが、鋳造された時期で次の3種類に分類されます。

  • 二水永 - 1626年(寛永3年)から鋳造されていた寛永通宝
  • 古寛永 - 1636年(寛永13年)から1659年(万治2年)前後までに鋳造された寛永通宝
  • 新寛永 - 鋳造が再開された1668年(寛文8年)以降に鋳造された寛永通宝

寛永通宝が最初に鋳造されたのは実は1626年です。とはいえ、この時は幕府と水戸藩から許可は得ていましたが正式な官銭として鋳造されていたわけではありませんでした。

そして、この時に鋳造されていた寛永通宝が、「二水永」と呼ばれる寛永通宝の中でも価値が高く、非常に有名な種類となっています。

それからしばらく寛永通宝が「二水永」が鋳造されていましたが1636年に幕府の公鋳銭として寛永通宝の製造が開始されることになります。

そして、生産停止や再開といった紆余曲折もありながら寛永通宝の鋳造・流通はすすみ、1659年(万治2年)から寛永通宝はしばらく鋳造を停止することとなり、1659年(万治2年)までに鋳造された寛永通宝が「古寛永」と呼ばれています。

そして、鋳造が再開された1668年以降に鋳造された寛永通宝を「新寛永」と呼びます。

「新寛永」と「古寛永」と呼び方が異なるように、製法も異なり銭文の書体に関しても違いがでてきます。

また、「新寛永」が鋳造される時期には、前述もしましたがそれまで流通していた渡来銭の流通をなくし、日本での銅銭の統一が実現した時期でもあるので、区切りとしてはよい区切りの時期ですね。

これ以降に鋳造される寛永通宝は「新寛永」として呼ばれるのですが、「鉄銭」や「真鍮銭」「四文銭」など変わった特徴をもつ色々な寛永通宝が鋳造されていきます。

新寛永以降鋳造された特殊な寛永通宝

新寛永以降鋳造された特殊な寛永通宝

前述でも少し紹介しましたが、寛永通宝は基本的に貨幣価値が「1文」かつ「銅銭」の貨幣として鋳造・流通されていましたが、次のような特殊な寛永通宝も鋳造されました。

  • 鉄1文銭 - 素材を銅から鉄に変更した寛永通宝
  • 真鍮四文銭 - 素材を真鍮に変更し、額面を4文に設定した寛永通宝
  • 精鉄四文銭 - 素材を精鉄に変更し、額面を4文に設定した寛永通宝

鉄1文銭が鋳造されたのは1738年(元文4年)ですが、当時は素材である銅の供給不足から、いくつかの銭座で鉄を素材とした「鉄1文銭」が鋳造されることになります。

ですが、鉄銭は「鍋銭」と呼ばれるほど仕上がりの悪い寛永通宝で、民衆からもかなり不評でした。画像で見ても明らかですが、粗悪な貨幣の事を表す「鐚銭(びたせん)」という言葉を俗称とするくらい不評でした。

寛永通宝真鍮四文銭の裏面

そして、1768年(明和5年)には額面を「4文」とした寛永通宝が初めて鋳造されますが、「鉄1文銭」が大変不評だったことから、素材を真鍮へと変更しデザインにもこだわりました。

背面には河合家の家紋である「波」が描かれていることから「波銭」とも呼ばれ好評な貨幣として受け入れられました。

そして、この「4文銭」という新しい額面が登場したことで、物価が支払いのしやすい4の倍数へと変更されるなどといった経済面での影響もありました。現在で言う「100均」のような4文均一の「四文屋」という店が登場したことからもその影響の大きさはうかがえるかと思います。

寛永通宝精鉄四文銭
そして、更に時代が経過して1861年(万延元年)には、4文銭が鉄製として鋳造されるようになりました。

「鉄1文銭」の評判が非常に悪かった事から、政府は「4文銭に使用している鉄は製錬鉄ということを強調した【精鉄四文銭】である」事を強調したが、その仕上がりは「真鍮四文銭」と比べると粗悪といわざる得ないものだったことから不評に終わりました。

余談ではありますが、素材が高騰したことにより銅から真鍮に、更には鉄へと変更していったのですが、ここで少々問題が発生します。

江戸時代の貨幣価値は、「文」のように現在で言う「円」のような額面はありましたが、金や銀のように素材自体の価値も重要視されていたのです。

つまり、同じ「1文」の寛永通宝であっても「銅銭」と「鉄銭」では額面は同じでも「銅銭」の方が価値が高いという認識になるということです。

「4文銭」でも同様で、「真鍮四文銭」と「精鉄四文銭」では額面は同じでも世間では「真鍮四文銭」の方が価値が高いと考えられるのです。

その為、市場では額面を無視した差別通用がされるようになり、それに対して幕府は額面通り滞りなく通用するよう触書を度々出してはいたけれど、市場での差別通用は止まりませんでした。

その結果、「精鉄四文銭」が鋳造された4年後の1865年(慶應元年)に幕府は天然相場を容認し次のように額面が変更されました

  • 文銭および耳白銭:6文
  • その他寛永通寳銅一文銭:4文
  • 寛永通寳真鍮當四文銭:12文
  • 文久永寳當四文銭:8文

この相場の変動から2年後の1867年(慶應3年)に、幕府は全ての銭貨を天然相場に委ねることにしましたが銅銭や真鍮銭の相場は更に上昇することとなりました。

ちなみに、江戸幕府が終了したのも1867年でしたので、貨幣の事情からも幕府の状況がひっ迫していたことが感じられますね。

明治時代以降の寛永通宝

寛永通宝は江戸幕府が発行した貨幣ですが、明治時代に入ってもしばらくは補助貨幣として流通していました。

「文」の額面が廃止された後は「厘」という額面に定められながら貨幣法が施工される1897年(明治30年)に貨幣としての資格を失いました。

しかし、法的に貨幣の資格を失いましたが、1897年以降も最小単位の補助貨幣としての使用は少なからず用いられることがあり、事実上完全に通用停止となったのはなんと1953年(昭和28年)に「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」の施行により円未満の通貨が全て通用停止とされた時です。

なので、法的に見れば寛永通宝の通用期間は約260年なのですが、事実上の通用期間は300年以上にものぼります。

このことからも、寛永通宝が非常に歴史の長い貨幣だったということが伺えますね。

余談ではありますが、香川県観音寺市には「寛永通宝」の砂絵である「銭型砂絵」があり人気の観光スポットとなのですが、2010年から観音寺市内の登録されたお店では、寛永通宝を実際の通貨として使うことができます。(銅一文銭=30円で使用できます。)

「銅一文銭=30円」で使用可能な事から、寛永通宝の希少性と価値が高くないということは伺えるかと思いますが、中には非常に高額な銅一文銭もございますので、寛永通宝を見つけた際には価値を明らかにすることをおすすめします。

今月のおすすめ業者!

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